スノーボード

サーフショップ Stylee Base (スタイリーベース)オーナー「櫛田 郷」という男の話をさせてくれ!!!

やっと書く決心がついたので、

僕が最も尊敬し、憧れる男

櫛田 郷(くしだ さとし)の話をしようと思う。

正直今まで恥ずかしくて書けなかった。

だけど僕には書く必要がある!

そう思い至るできごとがあったので、書く!

えっ?男同士の暑苦しい話は聞きたくないって?

な、なにおぅっ!?

そんなヤツぁ、、、

そんなヤツぁ、、、

そんなヤツぁ今すぐこのページから出て行きやがれってんだ!!

いやっ!ウソウソ!やっぱウソ!寂しいから聞いて。もぅお願い!ちょっとだけでもいいから。ねぇ、聞いて。お願い❤️

1 櫛田 郷 のスペック

早くも読者のみなさまをぶっちぎる勢いだったが、ここでざっくりと櫛田 郷という男のスペックを紹介しておこう。

ここでは分かりやすく、すべての能力値について100点を最高値として表す。

【櫛田 郷スペック一覧(2019ー2020モデル)】

  • スノーボードスキル 100点
  • サーフィンスキル    90点
  • 遊び心         300点
  • モテ度(男女問わず) 3000点 
  • アニキ度       5000点
  • 家族愛す度  100000000000点
  • 慎重さ          2点

         (ぶー調べ)

まぁ、ザッとこんな感じだ!

ちなみに2019年の秋に石川県白山市でStylee Baseというサーフショップをオープンさせたところだが、

将来的には「カナダに帰りたい」などと言って奥さんを困らせる

日本生まれの日本育ち、生粋の日本っ子だ。

どうやって櫛田 郷のスゴさを伝えようかと考え抜いた結果、

彼が僕の人生を変えた言葉を紹介することで、その人物像をもっとも分かりやすくお伝えできると判断したので聞いてほしい。

2 櫛田 郷が僕の人生を変えた2つの言葉

①「行けばいいじゃん」

今から遡ること12年、僕が20歳の大学生だった頃の話だ。

シーズンオフの間にスノーボード道具を物色しようとInD’sというショップの扉を叩いたとき、僕は櫛田 郷に出会った。

初対面のハナタレ学生に対しても懇切丁寧に接客する彼の姿勢にすっかり安心し、僕は話の弾みで

「夏も滑れたら最高なんですけどねぇ」

とこぼした。

まさかその一言が僕の人生観を大きく変えることになるとは考えもせずに。

彼は僕に言った。

だったら「ニュージー」行けばいいじゃん。30万円貯めれば1か月滑れるよ!

話の流れからすると「ニュージー」というのはおそらくニュージーランドのことを言っているのだろうと察しはついた。

しかしまぁ、その口調はまるでとなり町の美味いラーメン屋を薦めるかのごとく軽い調子だった。

櫛田 郷にとっては「ニュージー」は“ちょっと行ってくる”くらいの感覚なのだろう。

軽すぎる口調に僕は多少戸惑いながらも、「そ、そんなもんなのかな?」と思ってすっかりその気になっていた。

それからというもの、会う人会う人に「僕、ニュージー行ってくるんで!」と宣言し、ニュージーランドが自分の庭であるかのごとくカッコつけていた。

そしてギチギチに詰めたアルバイトで、1か月あまりで30万円をなんとか作った。

とりあえず覚えた英語は

・アイ アム ア ジャパニーズ スチューデント

・アイ ライク スノーボード ベリー マッチ

この二言を引っさげて僕は、初の海外にしてニュージーランドへと単身旅立ってしまったのである。

自分で言うのも何だが、僕はといえば親の言いつけをずっと守って“おりこうさん”に生きてきたタイプだった。

今振り返れば櫛田 郷という男の言葉には、いつも人の背中を押し、勇気づける魔法の音色が込められていたように思えてならない。

ニュージーランドから帰国した後、僕は彼の誘いに応じてInD’sというショップでアルバイトを始めた。

当時はショップライダーとして店先に立っていた彼は、スノーボードの確かな実績と人望を買われ、ほどなく社員となり、数年後には店長を務めるようになった。

僕は大学卒業後に公務員となったが、お互いの立場は変われど櫛田 郷はずっと僕のアニキとも呼ぶべき存在だった。

②「もうお前の腹ん中は決まってんだろ」

僕の慎ましく穏やかな人生における、2度目の転機を作ったのも櫛田 郷の言葉だった。

僕が公務員として勤めて5年が経った頃、僕の職場では東日本大震災の被災地復興支援職員の募集がかかっていた。

僕は震災直後に2週間、災害義援金の受付窓口に立った経験もあったので、「被災地のため」に何か力を尽くせるならという思いが半分と、

不謹慎とは思うが、東北に拠点を置いて未だ滑ったことのない山々を滑りたいという下心が半分、

そんな動機で復興支援職員の募集に申し込んでいた。

応募をした年、僕は落選した。

しかし次の年、2月の終わり頃だったかと思うが、ある日の夕方に僕は人事担当者から呼び出され、

「君、去年被災地復興職員に応募していたよね。実は来年度の希望者がいなくて困っている。行く気があれば明日の正午までに返事が欲しい。

と言われた。

僕はとてつもなく迷った。

というのも僕は、前年に希望した被災地派遣が叶わなかったことから、小さな挑戦として生まれてはじめての一人暮らしを始めていたからだ。

数十万円のお金をつぎ込んで新品の家電製品を全て買い揃え、自分が稼いだお金で自分の空間を持てたことに心底満足していた。

また櫛田 郷の勤め先であるIND’sとの物理的距離が近かったこともあり、よく飲みに連れて行ってもらったり、夏には彼と海に潜って小魚をヤスで突いて遊んだりしていた。

そのときの生活は、当時の僕としては人生で一番充実していた時間だった。

「今の生活を手放してまで東北に行く必要はあるのか」僕は真剣に悩んだ。親にも親友にも相談した。

それでも答えを出せず、僕は最後の切り札となるカードを切った。

僕は櫛田 郷に電話をかけた。自分が猛烈に悩んでいることを告げた。

僕の話を聞いた彼が言った言葉は、

いや、何を迷うんか意味が分からん。一人暮らしなんてこれから先いつでもできるっしょ?

お前は去年、東北に行きたいって思った。そうなんだろ?

だいたいお前が俺に相談するってことは、その時点でお前の腹ん中は決まってんだよ。

あぁそうか、と。

自分でも気づいていなかったが、僕が最初に櫛田 郷に相談しなかったのは、彼に相談すれば始めから背中を押されると分かっていたからだ。

背中を押されたときに一歩を踏み出す覚悟が決まっていないうちには、彼に相談することなどできなかったのだ。

3 まとめ

櫛田 郷という男は本当に不思議な男だ。

人に対して何かを「やれ」と命ずることもなければ、「考えろ」と慎重さを求めることもしない。

それでいて人の心の一番奥底にある欲求、“挑戦する心”を見抜き、しなやかな方法でその心に火を灯すのだ。

僕は東北に行って、仕事においてもスノーボードにおいても、想像をはるかに超えた経験をすることとなったのは言うまでもない。

そして東北での経験が、これまで僕の中に燻っていた違和感を確かなものにした。

公務員の仕事を辞めて、自分の人生を生きたいと思わせた。

この先はまた次の機会に書くこととしたい。

バイぶ〜