またも失敗しました。
初心者ブロガーの、ぶーです。
同じ過ちを繰り返さないよう、自分への戒めを込めて書きます。
また日頃ブログやSNSでの情報発信をされている方であれば、今後ボクと同じ過ちを犯してしまうこともあるかもしれませんので、ボクの失敗が気づきになれたら幸いです。
「イジる」つもりで書いた記事。失敗に至る経緯と内容
2019年12月24日に更新した、「拝啓 宮森 勇人 さま」が、失敗と反省を生んだ記事です。
記事は公開した当初のものに一部取り消し線を付ける形でそのまま残してありますので、この記事を読んだ後、もしご興味があればご覧ください。
1.失敗の経緯と、失敗の原因となった記事内容
まずは失敗に至るまでの経緯と、失敗の原因となった記事内容について簡単にご説明します。
・最近18年ぶりに再会した親友(←時を超えて親友になったと思いたい)が画家をしていると知った
・親友が渋谷で個展を開くというので見に行き、作品に感動したので購入した
・感動とお礼の気持ちを伝えたくて、親友に宛てて「手紙ブログ」を書いた
・手紙ブログの中に一部親友のアートを「イジる」内容を書いた
・イジった内容は、個展の真ん中にゴミを含む生活品を展示し、それをアートだと説明した親友の考え
・手紙ブログを読んだ親友から、「とても感謝するが、一部改めて説明したい」と連絡があった
2.親友からの連絡内容
次に親友からの連絡内容について、概要は以下のとおりです。
・生活ゴミを含むアート作品「マイライフ」に込めた思いを改めて説明したい。
・記事を作成したキミの意図は「イジる」ことでも、読み手が「批判」と捉える可能性がある
・公開の場での批判はすべきでない。褒めるのは公開で、批判は1対1で、これが情報発信の鉄則だ
親友からの連絡内容を、もう少し詳細に書きます。
(電話での会話内容を、記憶を頼りに書き起こしておりますので、一部ボクの解釈が混ざっている可能性があることをご了承ください。)
僕の作品「マイライフ」について、作品に込めた意図が十分に伝わっていないようなので、再度説明させてほしい。
「マイライフ」には生活ゴミを含めていたが、これには理由がある。
生活する上で使ったものや、創作活動に使ったものは、その役目を終えると最終的には“ゴミ”となる。
逆に言うと、“ゴミ”を見れば今の僕がどのような生活や創作活動をしているのかを伺い知ることができる。
この意味で、ゴミを含め自分が生活に使っている全てのものが僕のアートそのものだと捉えている。
キミが個展終了後すぐに、相当な熱量を持って手紙ブログを書いてくれたことを心から嬉しく思う。
僕もブログをやっていたし、今も情報発信を続けているので、手紙ブログにかけた労力はよく分かる。
その上で、僕はキミに言っておかなければならないことがある。
キミは文章をおもしろおかしくする意図で、僕の作品について理解が及ばないと書いたことは分かっている。
しかしブログとは一方通行のコミュニケーションであり、キミの意図をそのまま読者が受け取るのではないことを理解してほしい。
キミの意図はどうあれ、読者が記事をどう理解したかが“事実”であり、“事実”はときに誤解を生んだり、断片的な情報として一人歩きすることがある。
例えば、キミは僕が展示した“ゴミ”について、分別がされていないことに触れたが、あの“ゴミ”は展示スペースに限りがあるギャラリーに持ち込むために、意図して1つの袋にまとめたものだ。
だが読者が「分別されていないゴミ」との情報にフォーカスしてキミの文章を読んだ場合、「宮森という画家はゴミの分別もできないヤツだ」との誤解が生じる可能性がある。
情報発信において、誰かを褒めるときには公開の場で、誰かを批判するときには1対1で。
これが鉄則だ。日常生活におけるコミュニケーションと同じだ。
今回キミには僕を批判する意図がなかったことは理解しているが、文章だけ読めば誤解する読者は少なからず現れる内容になっている。
一度発信してしまった情報は、ときに一人歩きして名指しされたその人を公開処刑の目に合わせることすらある。
キミが真剣に情報発信に取り組んでいることが分かるからこそ伝えるべきだと思って伝えたよ。
「イジる」つもりの記事が生んだ失敗と学び
1.「イジる」つもりの記事が生んだ失敗
ボクは親友に宛てた手紙ブログの中で、文章をおもしろおかしくしようと、軽い気持ちで親友のアート作品を「イジる」記載をしました。
純粋に“ゴミ”をアート作品として扱う親友の感覚がボクには新鮮だったし、そのアート作品を最後には本当にゴミとして処分してしまうところに興味深さを覚えたのも事実です。
ただしボクが書いた文章は「おもしろい」とは捉えらないどころか、ネガティブな印象を与える可能性をはらんでいました。
実際に手紙ブログの宛先であった親友が「おもしろい」と受け止めなかったことが何よりの事実です。
2.失敗から得た3つの学び
ボクは自分が犯した失敗と、親友からの的確な指摘から3つのことを学ばせていただきました。
- 言葉は意思を伝えるツールとして、不完全だということを念頭におかなければならない
- 相手の真意を十分に理解していないうちは、否定したり、ネタにしてはいけない
- 情報発信はリアルでのコミュニケーションと同じ。褒めるは公開、批判は1対1で。
この3つの学びは、「そんなこと失敗する前に気づけよ」というレベルのものかもしれません。
ですがボク自身が失敗に至った原因として、ブログに限らずSNS等に関して、情報の受け手が「顔の見えない」相手であることへの油断が大きかったと言えます。
今この記事を読んでいただいているあなたは、日頃人と顔を合わせて行うコミュニケーションにおいて、「これを言ったら相手はどう思うかな」とか、「陰口として一人歩きしそうなことは本人がいない場で発言するのはやめよう」など、当たり前に気をつけていることと思います。
しかしパソコンやスマートフォンの画面越しのコミュニケーションとなると、なぜか自分の発する言葉が相手にどう伝わるかを想像することの緊張感が薄れる感覚はありませんか?
おそらく意図せず“炎上”し、他人や自分を傷つける根本的な理由は、画面越しのコミュニケーションにおける緊張感の欠如なのではないでしょうか。
まとめ 失敗の原因となった記事をあえて残した理由
この記事の冒頭でも書いたとおり、ボクが失敗を犯した記事は該当部分に取り消し線を付ける形でそのまま残してあります。
記事を「削除」または「修正」せずにあえて残した理由は2つあります。
一つは親友の指摘から得た学びを目に見える形で残そうと思ったからです。
この反省文とも呼べる記事を書くことを思いついたとき、ボクは親友に相談しました。
親友の答えは「さっきの電話で十分。何か学びはあったと思うし、何か悪いことしたわけでもないのだから、周りに公開する形で反省することまでは不要だと思う」というものでした。
親友はボクへの優しさから「そこまでする必要はない」と言ってくれました。
ですがボクに対して真剣に指摘の言葉を向けたときの親友の言葉は、電話越しにも明らかに熱のこもったものでした。ボクにとっては耳が痛くなる内容の指摘を、親友は誠意を持ってしてくれた。
このことに対して敬意を表すとともに、いただいた学びはいつでも再確認できるように残しておきたいと思ったのです。
そしてもう一つの理由は、このブログの読者の方に対して誠実でありたいからです。
ボクは親友が純粋に喜んでくれるとばかり思っていたものですから、親友に内容を確認してもらうこともせずに手紙ブログをアップしました。
取り消し線を付けるなどの対応をするため、一時的に記事を非表示にするまで約半日が経過しておりました。
ボクがこの記事を書いている時点では、ブログへのアクセス数は1日に0〜数件程度です。
もしかしたら親友以外は誰一人、親友に宛てた手紙ブログは読んでいなかったのかもしれません。
ですがもしかしたら一人でも手紙ブログを読んだ方がいらっしゃるかもしれません。
もしかしたら、その一人はボクの手紙ブログを読んでネガティブな感情を抱いたかもしれません。
だとするならば、その一人の方が再度ボクのブログを訪れていただいたときに、記事がなくなっている状態とはせずに、与えてしまった誤解を解きたい。
これが手紙ブログをそのまま残したもう一つの理由です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ボクの失敗が少しでも気づきになれたなら幸いです。
バイぶ〜