自分と向き合う日記

他者の期待と、複数の人格と、信頼できる他者の存在と。

ボクにとって「自分と向き合う」文章を書くのは、とても苦しい作業だ。

 

最初は自分が頭の中で創り出した「他者の期待」に苦しむ。

次に自分の中にある「複数の人格」に、身を引きちぎられそうになる。

 

だけどもがき苦しんだその先で、「信頼できる他者」の存在に気づく。

 

 

書くのはとても苦しいけれど、書くことにすがっている。

 

「今日こそは書こう」

何度決心を重ねたことか。

 

それでも画面の前に座ると必ず、金縛りにあったように両手は動きを止める。

初めて人の目に触れる文章を、書いたあの日を思い出してみる。

1行だけ書いて、1時間固まっていたあの日を。

 

初心に帰ろう。

頭の中に浮かんだ言葉を、そのまま文字にしてみよう。

 

 

自分が創り出す「他者の期待」

働くことにつまづいて。

幼なじみのすすめでブログを書き始めて。

自分の思考を言語化してきた。

 

自分のことが自分で分からない。

そんな状態が半年以上も続いた。

 

それはそれはツラかった。

今まで生きてきて、こんなに長い間、悩み苦しんだことは初めてだ。

 

自分の思考を言語化するというのはとても難しい。

自分について友人に語るのとは別次元に難しい。

だけどツラいのは言語化が難しいからではない。

 

本当のツラさは、思考を言語化して、自分の外に出した後にやってくる。

心の奥底にある感情と、自分が書いた文章との間に、ひとかけらのズレもないということなど、一度もなかった。

 

「本当にそうか?それは本当に自分がやりたいことか?見栄を張る気持ちは混ざってなかったか?いいヤツだと思われたくて自分を飾ってはいないか?自分に嘘をついてはいなかったか?」

 

自分の中にはまだ、自分が勝手に創り出した「他者の期待」が確かに存在している。

「この文章を誰かが読んだら、どんな風に思うだろう。嫌な気持ちにならないか?自分勝手だと思われないか?自分を見限りはしないか?」

こんなことをグルグルと頭の中で考えて、一人で勝手に消耗していく。

 

本来自分が書いた文章というのは、自分から離れた時点で既に、自分のコントロールが及ばないところにある。

書く段階で読み手の顔を意識する必要があるかどうかは差し置いて、出してしまったものはもうどうしようもない。

文章の価値を判断するのはあくまで「読み手」であって、自分ではない。

 

そもそもボクは「自分と向き合うこと」を第一の目的として文章を書いている。

それなのに勝手に「他者の期待」を創り出し、一人で悶々とするあたりは何と未熟なことだろうと思う。

 

「自分と向き合いたい」のであれば素直に書けばいい。

「何かを伝えたい」のであれば拙い言葉で必死に表現すればいい。

 

文章を書くこと。

きっとこれ自体はごくごくシンプルな行為で、ややこしくしているのは自分が頭デッカチだからだ。

 

分かってはいるんだけれど、なかなか「他者の期待」は克服できない。

 

自分の中にある「複数の人格」

とはいえ文章を書き始めた頃よりは、幾らかマシになったように思う。

自分の思考の中に存在する「他者の期待」と「素直な心」。

この2つを見分ける力が少しずつ養われてきている気はする。

 

それでも自分の書く手は止まる。

では書く手を止めるモノの正体は、一体なんだろう。

 

きっと自分の書く手を止めるのは。。。

 

「移ろいやすい自分への恐れ」だ。

 

「自分はこう思う。自分はこんな人間だ。」

瞬間瞬間では信じて疑わない思考を文章にしたとき、ある種の解放感のようなものを感じる。

 

人間は「分からない」という状態や「知らない」という状態を、ひどく怖がる生き物だと聞いたことがある。

きっとそのせいだろう。

 

「今の自分はこう思う」

 

これを言語化して、自分の言葉で定義づけたとき、「分からない」状態から解放される。

だから早く思考を言語化したがるんだ。

 

しかし問題は、思考を言語化したその後だ。

 

自分の感情も思考も、1週間後にはまるで別物。

そんなことなんてザラにある。

昨日と今日とでまるで違う自分のように感じることもある。

 

自分の内面に深く光を当てていくと、自分は「同一性のある一つの存在」だと思っていたことが、間違いだったと分かる。

おそらく自分の中にはいくつかの人格がいて、普段はそのうちの一人が表に出ているだけだ。

 

例えるとこうだ。

真っ暗な舞台の上にいくつかのイスが並べられていて。

そこには何人かの自分が座っている。

 

そしてそのうちのたった一人だけにスポットライトが当たっていて、光を浴びた一人だけが思考し、発言することを許される。

光が当たっていない残りの自分は、光に照らされている自分の思考と言葉を、ただただ受け入れ、記憶している。

 

そんな感じだ。

少しオカルトじみたことを書いてしまったけど、「調子の良し悪し」程度の話だ。

気分が乗って全てがうまくいく日と、その逆の日と。

 

調子がいいか悪いか。

これだけで片付けてしまうと気づかない。

だけど勇気を振り絞って自分の内面にじっと見つめてみる。

するとスポットライトが当たっている自分の周りに、うっすらと別の何人かの自分が見えてくる。

 

ではスポットライトを操るモノの正体は一体何だろう。

眼に映る景色であったり、耳に入る音であったり。

他人の言葉であったり、表情であったり。

 

きっとスポットライトを動かすモノの正体は無数にある。

数を上げればキリがないほどに。

 

ただ悲しいことにボクには未だ、自分でスポットライトを操る術がない。

 

 

「信頼できる他者」の存在

とはいえ最近気づいたことがある。

文章を書くことを恐れ、それでも思考は止められず、もがき苦しみ失敗を重ねる中で。

 

やっとのことで気づいた。

スポットライトを動かす手助けをしてくれる、「信頼できる他者」の存在に。

 

ボクは今まで、真っ暗な舞台の上にたたずむ「何人かの自分」にしか目を向けてこなかった。

だから気づけないでいた。

「信頼できる他者」は確かに存在して、潰れかけているボクに手を差し伸べる準備があったということを。

 

いや。おそらく心のどこかでは、その存在にボクは気づいていたのだろう。

ただボクには、「信頼できる他者」に身を委ねる勇気がなかった。

ともすれば自分が一歩を踏み出せない理由を、彼らの中に求めることすらあった。

 

とうとうボクが倒れかけたときのこと。

「信頼できる他者」は傾くボクの身体を支え、立ち上がらせ、スポットライトを操る力を授けてくれた。

 

無理を重ねすべての力を失い。。。

最後に残った「身を委ねる勇気」を自覚したとき。

ボクの周りには確かに、「信頼できる他者」は存在した。

 

 

「信頼できる他者」に貢献すること

きっとボクが自分の「人生を生きる」うえでは必要なのだろう。

 

「他者の期待」から離れることも。

自分の中にある複数の人格を直視することも。

 

だけど自分一人の力にはやっぱり限界があって。

「信頼できる他者」の存在に、身を委ねる勇気が必要なんだと思う。

身を委ねる勇気のことを言い換えると、それはきっと「信じきる勇気」だ。

 

自分のことしか信じられないうちは、きっと自分のことすら本当のところでは信じられていないのだろう。

 

ボクはまだ、この先どう生きれば良いのか分からないけれど。

「信頼できる他者」の存在を信じ、身を委ねて。。。

 

そしてもらった以上のモノを「信頼できる他者」に恩返ししていく。

その営みの中でボクは一人の人間として、「人生を生きる」実感を得られるのではないだろうか。

 

今はそんな気がしている。

明日には変わるかもしれないけれど。

 

 

忘れてはいけないこと

 

思いのまま書きなぐってみれば、えらくクサイ文章になったじゃないか。

 

だけどこれだけは言い忘れちゃいけない。

 

「本当にありがとう」

 

倒れかけのボクを支えてくれた「信頼できる他者」たちに、心の底からお礼の言葉を叫びたい。

 

 

 

 

 

バイぶ〜