2019年の夏、じいちゃんは死んだ
2019年、夏の盛りのこと。
ボクの大好きなじいちゃんは死んだ。
今思い返せば、この頃からだったのかもしれない。
得体のしれない焦りがボクを支配し始めたのは。
2019年の夏以降、今の生き方に対する疑問が急速にふくらんだ
ボクは地方公務員の事務職員として勤めてやがて10年になる。
週末だけを楽しみにして、仕事はつまらないものと割り切って働くことに、これまでも違和感はあった。
月170時間を超える残業に疲れ切った日々や、上司からのパワハラを受けたこともある。
それでも10年間、公務員を続けてきた。
だけど2019年の夏頃から、公務員の仕事が全く無価値なものとしか考えられないようになった。
なぜ今になって急に、自分の心に変化が訪れたのか、理由はずっと分からずにいた。
そんな折に、自分とは異なる環境で挑戦を続ける人たちの存在を知った。
- 18年ぶりに再会した幼なじみが、フリーランスとして生き生きと働いていることを知った
- 小笠原諸島で出会ったツアーガイドの方が、30歳代まで教員をしていたと知った
- 地元の尊敬する先輩が、独立してサーフショップをOPENさせた
ボクは彼らの自由な生き方に心から憧れるようになり、いつしか公務員を辞めることを決意していた。
「公務員辞める」両親に告げた元旦の日
2020年の元旦、ボクは久々に会った両親に公務員を辞めると告げた。
父は言った。
「お前は一家の爆弾になろうというのか」
この一言を皮切りに、勢いだけでなんとか上手くやっていけると説明するボクと、絶対に無理だと言う父の、一歩も譲らない話し合いが続いた。
2日間かけて、合計10時間以上も。
これだけの長い時間、投げ出さずにボクと真剣に向き合ってくれた父には本当に感謝の気持ちしかない。
そして父とボクとの話し合いを、一言も発せずにずっと隣で聞いていた母の忍耐力たるや、言葉で表現することなど到底できない。
10時間以上に及ぶ父と子の会話の後、はじめて母が口を開いた。
「心配なのは、たった3か月という短い期間であなたが今の仕事を辞めると決めたこと」
そして母は続けた。
あなたは今、客観的に物事を捉えて判断することができなくなっているように思うよ。
「仕事を辞めても大丈夫。世の中にはお金を得る手段はいくらでもある」
あなたはそう言うけど、それはあなたがこの3か月という短い期間に見聞きしてきた“知識”に過ぎない。
実際に自分で“経験”してみないことには、お金を得る手段も絵に描いた餅でしかない。
強い言葉ばかり口にするのも、あなたが自分自身を奮い立たせようとしているように見える。
それは何より、あなた自身が一番不安を感じている証拠。
あなたの人生だから、決めるのはあなた。
だけど大事な大事な我が子が、冷静な判断力がない状態で仕事を辞めて、心や体が朽ちていくのを見るのは何より辛い。
今の仕事を続けながらでも出来ることはあるはず。実際に行動すればいいじゃない。
今の仕事はあなたにとって無価値かもしれないけど、大切なことは失うまで、その本当の大切さは分からないもの。
この夏におじいちゃんが亡くなったとき。私も気づいたの。
自分の親はいつまでも生き続けると、心のどこかでは思ってたみたい。
じいちゃんの死に触れ、母はうっすらと目に涙を浮かべた。
隣で聞いていた父が言った。
「母さん、こないだ言ってたよ。人生で一番の幸せは、お前たち兄弟に出会えたことだって。」
父は続けた。
「何よりお前たちの幸せが一番大事なんだ」
ボクは久々に両親の前で涙を流した。
ボクは自分の幸せを求めていたけど、父と母が求めていたのも、同じくボクの幸せだった。
嗚咽が混じり、それからは上手く話すことができなかった。
だけど普段恥ずかしくて口にすることができない言葉を、伝えることができて本当に良かった。
「産んでくれてありがとう」
自然と口からこぼれた。
得体のしれない焦りの正体は「死の意識」だった
ボクは両親との話し合いをつうじて、やっと理解した。
この数ヶ月間ボクを支配していた得体のしれない焦りは、「死の意識」だったと。
大好きなじいちゃんの死という事実に、ボクは無意識にフタをしていたのかもしれない。
じいちゃんが死ぬまで、心のどこかでじいちゃんはいつまでも生き続けるって思っていた。
だけどじいちゃんの死を目の当たりにしたとき、ボクははじめて「死」の意味を肌で感じた。
人はいつか死ぬ。
この当たり前のことを心で理解したときから、人生を100%の本気で生きていないボクは焦燥感に包まれ始めた。
ボクは人生を本気で生きて、じいちゃんのように幸せに包まれて死にたい
焦りに包まれたボクは、焦りの正体も分からないまま、自分が本当はどう生きたいかという問いに向かい続けていた。
魚突きやスノーボードなど、自分が大好きな遊びを毎日できれば、それだけで幸せなんじゃないかと思ったこともある。
だけど今は、はっきりと分かる。
ボクは自由な生き方に強く憧れる。だけど自由な生き方は決してゴールではない。
ボクは最期まで家族に幸せを与え続け、自らも家族に心から愛されながら、幸せの中で旅立っていった、じいちゃんのように死にたいんだ。
じいちゃんの最期
思い返せばボクのじいちゃんはいつも、家族を喜ばせることばかり考えていた。
自分のことではなく、家族のことをだ。
だからボクを含めじいちゃんの家族はずっと幸せだったし、じいちゃん自身も家族の幸せに包まれて、ずっと幸せそうだった。
じいちゃんは終末期病棟に入っていた。
息を引き取る1週間ほど前、じいちゃんが意識不明の昏睡状態と聞いて、ボクと弟はじいちゃんに会いに行った。
意識不明のはずが、呼びかけるとボクの目をしっかりと見つめ、胃ろうの管に邪魔されながらも、声にならない声を上げて涙を流した。
ボクと弟は、1時間ほどじいちゃんと最後の会話をすることができた。ありがとうって伝えることができた。
それから数日後、ばあちゃんの元へ病院から連絡があったそうだ。
じいちゃんの容態に変化があったと。
危篤の知らせではなかったが、母は何か感じるものがあったのだろう。
母は、ばあちゃんを連れてじいちゃんの元へ向かった。
母とばあちゃんが、じいちゃんのところへ到着したとき、二人を待っていたようにして、じいちゃんは静かに息を引き取った。
じいちゃんは大切な家族一人一人と最後の別れをするため、残されたわずかな力を振り絞って生きてくれた。
ボクたち家族に、後悔が残らない別れの形を与えてくれた。
ボクにはそう思えてならない。
じいちゃんの葬式のときに、誰かがつぶやいたのが聞こえた。
「こんなに幸せに死ねる人っていないわよね。」
ボクもじいちゃんのように人を幸せにしたい
ボクもじいちゃんのように幸せな死に方をしたい。
だからボクもじいちゃんがそうしたように、精一杯人を幸せにしよう。
じいちゃんは第二次大戦中、疎開で生まれ故郷を離れた後、ばあちゃんと出会ったと聞いた。
戦争という不遇からじいちゃんは立ち上がり、大工として働いてばあちゃんやボクの母、母の姉を幸せに包み、育て上げた。
じいちゃんのおかげで母はとっても幸せに育った。
そして母と父のおかげで、「世界一幸せな家庭」とボクが自負する家庭で、ボクは育ててもらった。
そもそもボクは、じいちゃんよりも余りに恵まれたスタートラインに立たせてもらった。
じいちゃん、ばあちゃん、両親のおかげで。
だからボクは、じいちゃんに負けてはいられない。
人生を100%本気で生きて、じいちゃんよりもっとたくさんの幸せを人に与えられる人間になろう。
そしていつの日か。。。
ボクが死を迎えるとき。
ボクの「死に様」は、じいちゃんの「死に様」そのものでありたい。
バイぶ〜